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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

桑子敏雄『感性の哲学』

>「死の訓練」とは哲学することそのもの

>人間の心はどうしようもなく身体に縛られ、また癒着している。そして、存在するものを、ちょうど牢獄を通してのように、身体を通して考察するように強いられ、自分自身で、自分を通して考察することができず、まったくの無知のなかを転げまわっている。この牢獄の恐ろしさを見抜くのが哲学

>魂が純粋になって身体から離れたとするなら、…身体から逃れ、自分を自分自身へと一体になるようになる。魂はいつもこのように自分を訓練している。これこそ正しく知を愛することにほかならず、ほんとうの意味で平然と死ぬことを訓練していることである。

 

プラトンは心を「それ自身がそれを動かすことのできる運動」と捉えており、アリストテレスはそれを批判する。心は運動するもの?心における「運動」と身体における「運動」は同じもの?動かす、動かされる、作用する、作用を受けるということを、わたしたちは物理的なイメージでしか想像できていないのではないか、また、そうやって想像することしかできないのではないか。物理的対象を記述するのと同じことばを使ったとしても、それとは異なった意味での「心のはたらき」があるということを忘れがちなのではないか。理性の考察する普遍的対象は内的なもの、この内的な対象によって理性は作用を受ける。普遍的な対象はすでに心のなかに存在し、それが実際に思惟されることで、人は普遍的なものを思惟する。

心が身体・外的な運動や作用から離脱したものであること。

 

そこから

価値とは、その場における価値をいう。増殖するというなかに含まれる価値、変化するという価値。何らかの「離脱」を人はイメージしているように思う。にゅるっと抜ける、その足がかり、しっぽ。よくいう、認知を変えるということ、、。

 

お金=人、というとらえ方でいいと思う。