読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hidden design

大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

同人誌の制作、そのほかをしていてもやもやすること

まとまらないけれど

「仲間」と呼んでいいひと、届けたい対象が周りにいるからという流れで仕事が発生するのは、今はおもに短歌。

自分が気になって深くかかわってみたい、これをレンズとして見てみるという生き方も自分にはあったほうが楽、と感じながら関わっている対象である短歌

に、

それをシステムとしてとらえたときに自分が感じるもやもや感があって

おもに「届けたい」「届けるべき」宛名をうやむやにしてしまいがちですっきり仕事ができない、提案もできない、ということもよく感じる。

 

商業ベースにのっとった提案意図をはさむなら自信をもってできるけれど(そうするしかない)、単に「誰かに届けたい」という意図で発信しようとしたときに(それが本来なのに)、わたしの提案ではだめです、見方ではだめです、ぜったい、という気持ちが湧く。単に慣れていないからかな?というのもあるけれど

たとえばツイッターのタイムラインを冷静に外から見たら、やっぱり異様かなと感じるのは

どうしてそんなに気を遣い合うのだろう?ということ、

どうして言ってはだめな言葉があるような気配を共有しているのだろう?

どうして本を出版し売るということが困難で身を切ることとつながるんだろう?ということなど。

と、どうしてわたしは思うのだろう。その思い方をおそらく楽だからしてきたのだろうけれど、それに疲れたな、ということ。また、ひどく安易ではないか、思考していないのではないか、情けないのではないか、ということ。

 

まあそれはツイッターや、人間が実際に「目」という機能をもっているから、その現物の「目」でしか見えないことに囚われているから、ともいえる、その方が大きい、というかそれが根本的な原因かもしれない。

文芸も武道もなんでも、技術を獲得して上手くなることではじめて「見る」というところに立つことができるもの。というのを前提として、あまりにも短い歳月や現状のままの癖まみれの私で「先生」をつくり「仲間」をつくり、言葉を言葉っぽく遊ばせている(遊ばれている、または遊ばれてもおらず退屈されている)、ような気がすごくする、自分は。

なんのためにか。

自分の好きな短歌や言葉を死なせたくないから、好きなままでいたいから。それで、その好きな対象に嫌われまいとして気を遣っているような。今の・今までの、自分たち・人たちが満足することを考えているため。

つまり対象をなめているため。

かも、と思う。

 

自分が小さい頃隠れて読んだ大人の本のあの陰の濃い雰囲気、「編集」という語られ模索されてきた概念を好きで、穴や線やつぎはぎを表現することができるというシステムともして整えられ変化していくための「デザイン」という働き・たたずまいがわたしはどうやら好きらしくて、運よく(それしかできないために)仕事にしてきたものに対する関わり方、信頼感、壊しても壊せない、と感じるもの「の周り」と、短歌「の周り」のそれとは似ている。

良いも悪いもない、言葉もない、あると思いたいものはない、手ざわりのようなものや穴や線のようなものを手がかりとしたいかなしみ、みたいなもの、とわたしは思い、あるいは思わされ、

そこをわかりたい、という思いが働き、それにまつわっていたいと感じる。それなら、

点をうつことや紡ぐということに依って拓く、汚す。しかないのに。

具体的にどうしたらいいかは、そこから見えてくる、きた。

 

東京じゃない小さなデザイン事務所なら、商業ベースの仕事がほとんど。商業ベースというほわんとした名付けもむなしいけれど。わたしが好きなのはいわゆるマニア受けする世界のもの、とりわけアートにまつわるもの(それを信頼したいから)。それにまつわることをまともにまつわらせたい、仕事にしたい。と思っていて、ポートフォリオをまずは創っていかないととも思っている。自分の好きなターゲットに見せる作品はない。小さい事務所にばかり勤めてきたので、B to Bではあるけれど。まず、というか仕事をしながらまとめないといけない。今はそこ。

作品として見せられるもの、かつ、お金はほとんど手元には回ってはこないけれどお金の動きはあり実際に仕事といってもいいもの、何より楽しいし、学べるし、という自分側の利になるものとして同人誌などの企画や編集や制作には手を出しています。というのは大きい。デザインはその発光体と持ち合わせている陰の具合を、ひたすら整えること、そして少し崩すこと、と思う。

 

 

しかし、見える画面が狭くて長い文章を書くとすごく分かりにくくなるなと感じる。ぱっと短時間で考えなくても分からせるキャッチコピー的なものが好まれているということの、画面のつくり方へのあらわれだろう。

今回のタイトルはそれに寄ったものにしてみました。こういうタイトルが「良い」というわけでは決してなく、わたしはまだ好きになれない。でもまずこういうののコツ、時代をつかんで仕事をがつがつとっていきたい時期。そこから語り、聴くのが速いのか、どうか。

 

でも自分の「りきみ」だろうな。自分のこと、私事としてしまって。