hidden design

大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

話が通じませんように

ログイン、ログアウトのマークは三本の横線。これはけっこう、どのデバイスでもそうなのか、、と知ったのがほんとに少し前。みんな、知っていたのか。わたしは知らなかった。もうすぐ電話をようやくPHSじゃなくするので、わたしもするするするっと、スクロールしたりするようになる。

内容をふかく知ろうとしないでくれ、という指示の、外国語のちらしをつくったことがあった。また別の仕事で、ここは客が読まないように工夫してほしい、という注意書きをつめこんだことがあった。顔の修正、景色の修正もよくした。

人のものの見方など、簡単に誘導できる。自分の見ていると思っていることは、何だろう?あらかじめ仕組まれた何かに、もう毒されているだろう、きっと。それは何だろう?たとえばログインログアウトのマークは、どこへわたしたちを向かわせようと「仕組まれている」だろう?自分が善意と思っていたことは、ことごとく失態だった、失態なのではないか。今までになく、ほんとうに自分の目が信用ならない。

そんなようなことにとらわれていた数日、数週間があった。見ているものも、書くことも、焼き直しであること、どこか過去にしがみつきたいための対象だろうこと。知識の低さと、見えると感じたものの近くに寄りすぎているのだろう。

自分が知らないことを言えるのが知、という。質問を見つけることができたら、とんでもなくすごい応えが出て来るという。文体に体がなじみ、そこから頭での理解がはじまるという。他者に暴かれる可能性のあるものを私という、という。

また。インドでは森の下に学校があったと、今日はじめて会いに行った詩人から聞いた。宿舎も森の下。

「正しい読み方」、「たったひとつの答え」がありませんように。話が通じませんように。見えるものが、見るたびに違うものと感じられますように。ログインとログアウトが同じマークだというのは救い、なんだか感動的だ。

そんなことを思ったり、ほんとうにもっともっとつまらないこと、もっと眼の前にあることがわたしの「分からないこと」なんだろうか、そんなことを思ったり。

 

>テクストを読むという行為は、テクストの究極的意味を空虚な仕方で現前させることではない。そうではなくて、読むということの固有の本質に属しているのは、「おのれに固有の読み方」をするということであり、かつ、どのような「おのれに固有の読み方」を通じても、テクストの意味の統一は揺らぐことがない、ということなのである。

 

むつかしい。むつかしいよな。ちまちま読んでいて間に合うんだろうか。聞きたい声に、読みたい本に、全然間に合わない。どうしたらいいか。

 

レヴィナスと愛の現象学

レヴィナスと愛の現象学