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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

スーザン・チャンチオロと立花文穂と、

Susan Ciancioloの『The Great Tetrahedral Kite』。ニューヨークでの個展にあわせて制作されたZINE。ドローイング、コラージュ、打ち消す線。メモされなぞられ、幾層にも重ねられた、何か。血のついた服を、雑誌で見たのがこのひとを知るきっかけだった。

ユトレヒトでの「立花文穂の本とか、」。ちぎられ、破られ、踏まれてきた、何か、語られなかったことを知っている、何か。綴じ糸が飛び出し、むき出しになった言葉、の、代わりの何か、の、変わりゆく姿。

 

どうして惹かれるのだろう? どうして「わかる」とつよく感じるのだろう? 「わたしも、それを知りたいと思ってきた」と思わされるのだろう? あらかじめ、掻きむしられている。筆跡がついている。

 

>だからわれわれは過去のほとんどをゴミとして捨てる。忘れることにする。こういう時間のからくりについて、ボルタンスキーは多くのことを考えさせる。

 この先でボルタンスキーが力を込めて、しかしまことに柔軟に取り組んできたナチスによるジェノサイドの記憶のことを考えたいのだが、それはもう少し後にしよう。

池澤夏樹『異国の客』

>思考の中心には麻痺や崩壊があり、「私は思考することができない」というその思考の不能性が思考の無底の基盤をなしえいるのだが、だから私はそこから出発し、それ故に存在の間歇をこそ書かねばならないのだ、というようなことをアルトーは言っていたが、思考の一切が自らの空洞のなかに失われるかもしれないその刹那に、その存立と同時に引き起こされる破れというか怖るべき空洞のやむにやまれぬ実在性を主張しようとして、身体は内乱状態を引き起こすのである。断っておくがこの内乱は比喩ではない。アルトーが言うように、精神はそれ自体としては一種の癌腫なのだから

鈴木創士『文学芸術全方位論集 ひとりっきりの戦争機械』

 

私は、言おうとすることを知っている、これから私がするだろうことを知っている、けれど、理解、しては、いない。言ってしまったこと、してしまったことを知らない。過去をその通りに理解することはできない。どうして、生に選ばれている今があり、交わらなかった何かを、書かれなかった空白を、知らないというかたちで知っているのだろう。「どうして」と立ち尽くすしかないこの直前に、たしかにあった答えそのもの。その、象徴として降っていた雪のしずけさのようなもの。を、思い出す、あるいは、待つ作業としての作品。「としての作品」としてそれに出会うわたしそのものが、それらに出会うときに、一瞬、答えそのものになる。