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hidden design

大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

たとえばコスト意識という言葉

騒がれていることとの関わり

>ただ、騒がれている時代に居合わせることは、何か自分に引き付けて考えるべき素材があるということ、とも思う。

と書いた。ここで何かひとくぎりついたような気になっていてはだめで、これでは何も言っていない。問題をあげてもいない。気分を呟いた、だけ。ここで井戸を掘らないと、この先何が起こってもたびたびこの気分を言い換えるだけになるだろう。

また、騒がれている渦中のもの、人は実はすでにさらっと次のことを考えてわくわくしているかもしれない。そうであったらいいな。

カメラのことを考えていたら、カメラのパンフレットの仕事がきた。まず他のカメラの会社の、パンフレットや広告がどんなふうにデザインされているか見る。この業界においての、外れてはいけないトーンやルールを守ろうと思う、ここは真似ようと思う、自分の楽しみは小さなところで満たせると思う、整えるだけですっときれいに見える。

 

どんな仕事も、だれでもできる。デザインも。道具とセンスがあれば、提案することも形にすることもできる。ただ、仕事となれば、ややこしい校正もあるし、これと同じものをつくってと言われることもよくあるし、体力もスピードもその仕事に合ったものが求められるだろう。

仕事となれば、かたちにして「届けた先の人やものが届けた先の人やものが届けた先の人やものが…潤うか。潤うループ」に、しっかり持っていけるか、というか、持っていくべきひとがしっかり持っていけるようにできるか、というような能力が大事なのでは。大きな視座に立てる能力。そこを見ずに、気分で判断して好き嫌いで批判されているように思う。

この行動はほんとうにこの声を聴き、声の主そのものを満たそうとしている行動かどうか。

こういう論議のブームが起こると、今目の前にある形や人、そういう具体的なものをあげつらい生贄にしたい、そういう切迫したいらいら、見えなさ、わたしは、わたしたちは、ここから抜け出せないんだ、という「諦め/諦め切れなさ・だけど手間をかけたくない」というコスト意識にみんな、ほんとうにみんな、つまり、みんなと見てしまう自分自身が、いとも簡単に囚われてしまっているような気がする。「コスト意識」という言葉の理解のし間違い、みたいな。言葉、そのときの都合に合うように使える言葉。そうして気分にのまれて使っていると、すっかすかになる。