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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

デモの隣を通り過ぎて

30日、扇町公園でもデモがあった。いろいろ思ったなあ、、。見に行きたいのもあって、用事をすませに。多くの人が道路を連らなって歩いているところだった。たしかに若者は少なかったし、この言葉を唱えるのか、とへなっとなった。相手は「その言葉のために政治的に動いているんだ」ということなのだから、これでは話が通じないんだろう、でも、言いたいことは分かるし、シンプルに、人が人へ「ものを言う」「見てもらう」ための土台をつくることを繊細に考え、それはとても工夫されてきたんだろう、個人がまともに話し合って。と思った。目的もたぶん違う。この先があり奥深い、そこへ行くための。

そして、その行動に入ってゆくことなく、内情の分からないままこれを書いていることはぜんぜん意味がない。ほんとうに自分が素直に感じることに心をとめ、調べ、それを媒介としていろいろな立場からの目や思いを理解し、思い、誠実に意見を言うということ。その場所や時をつくることとは、、どうしてか、ものすごく大きな壁のように思える。そういうなかで、その環境に甘えて生きてきた。

警察の人がわりとゆったり仕事をしていたのと、雨上がりだったから車が信号前で止まったり動きはじめるときのざああっというしずかな音の優しさ、人が横目で静かに見守っていた、あの静けさ。

困難と感じることは、客観的になって環境をすこし変えればさらっと解消する、こともあって、自分のまわりの環境をなんとかしよう、みんな頑張っているのだし、わたしも。そういうことを思いながら帰ったと思う。

 

わたしたちは、同じ時間軸上にいるだろうか?言葉はどうして通じているだろうか?今、と思う瞬間にずれていて、その人を認める途端にずれる。気分に火を点け合って、「個人」の範囲を外側から締め付け、決めにかかり、リンチして棄て、忘れるような。こういう、遠い近い社会の感じ。そして、実際に起こっていることがそうなのかよく分からないまま、そういうところを多くの人が見たがる、考えたがるということ。何を、わたしたちは見て聞いてきて、解釈してきたか。

 

表現は、言えないことが言える。癒えないことが癒える、とどこかで思っている。

今、「どうして」と考え込むとそこへ落ちてしまいはしないか、表現を確かにしてきた人、してこようとしてきた人、ものに出会いに行くほうが効率的ではないか。わたしのなかにすでに巣食っていたものがこんなに表面化されたのだから、もう、ここにとどまることはないのではないのか、いつだって。

ほんとうに言いたいこと、言うべきことなど、たとえば発表された文章の文字間のあき方ひとつで通じるのではないのか。それで終りではないのかな。

など。

わたしは何をやっているんだろう、、? 狐につままれたような気持ちでもある。いつもぼんやりしていて、ついていけなかった。