読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hidden design

大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

中島智『文化のなかの野性』

コミュニケーションはまつりあげられていないか。「分かる」ことは善か。

おいしい食べ物ってべつにない、興奮して話されている噂話、そこからしんじつを垣間見ることも、興味がない。完璧に、すっきりすることってない。求めることは必ず求めるようには来ない。環境にどう反応してしまうか、癖づいてきたことがあり、自分を好きでも嫌いでもない。好きなこと、嫌いなことは、そのときのうつろに後押しされてそうしやすいというだけの気分かもしれない。

 

>「ディスコミュニケーションは価値の本源においてこれを守護しているがゆえに聖別することは善である」

コミュニケーションが善という暗黙のテーゼがあり、文化の保護についての空しい論議がなされている。ここでいうコミュニケーションは、言語による類型化作用。アラベスクは類型化や自己投影は善か?という根本的な疑問を自覚させる。

あいだをつなぐもの。官能的なコミュニケーション、陶酔がある。対象の生きているコードに参入し、相手を動かし、体験的な知識を得ること。我がうちの野性を全開にして。

 

>「世上の知識はすべて抜け殻のごときものであって、これに魂が入ると初めて生命のない身体に命が宿ったようになる」ルーミー

 

植物的思考と雑食性思考について。

>植物的思考とは植物が太陽から大気や土から直接養分を得るような直接性の指向

>雑食的思考とは動物のようにできあいの食物や先行的なフォルマリスムの摂取によってダイナミックに動く指向

たとえば「型」があり、先行形態の解体と再構築はこのダイナミズムの所産といえる。が、へたをすれば自らの幻想的な構築物を自らの別の幻想によって否定するのみで、その借りものの幻想そのものとしての自己は揺るがないものとなりがち。「他者」をも範疇に入れた雑食性のダイナミズムは「私」の不確定性を立ち現せるものにもなりうる。

 

いつでもピントを合わせない「行」。いつも何かにすがろうと、視線はもがく。ピントを合わせないように、自我を救わないように。この非常に苦しい状態から、どうにもならずに目がとらえたもの。それは自我をはさむことなく、見事にリアルなもの。

また、陶酔の「行」。いつでも「覚」めているために。そのモードをつかむための「行」。

>自我に対して覚は自分自身とは関係のない働きのごとく思われ、主観のなかにありながら、ある意味の客観性を持つ。

 

ほぼ引用。メモ。

 

 

文化のなかの野性―芸術人類学講義

文化のなかの野性―芸術人類学講義