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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

憂さ晴らしではなく、休憩できるようになってきたと思う

憂さ晴らしではなく、休憩できるようになってきたと思う。保育園の送り迎えの前後に、わたしはいちばん、落ちる。あと何分後には立ち上がってぐちゃぐちゃの部屋をさらにぐちゃぐちゃにして、情けなさすぎる気持ちで急いで用意をして会社へ行くだろう、または、またぎりぎりになって(預かってくれる時間を過ぎて)迎えに行くだろう。…どこか絶対に心にたいしてけちけちしている、問題が見えない。それは、憂さ晴らしどまりだったからだし、そういう時間の使い方のほうがめんどうじゃなかったからだろう。何も信頼していなかったからだろう。何かを認めたくなかったからだろう。

 

言葉など、声かけなど、何にもならない。ゆっくり、と言っても、休みなさいと言っても、言われたほうはそうすることを想像することすらできない。自分のことで、いっぱいいっぱいだから。誰も、自分の文脈でしか声を出せない。その自分の範囲を深くしたりなくしたりすることはできる。そこから自ずと出た声は響くだろう。

 

 

あ、今、音がずれて聞こえた。耳をすましていたのだ、自分は。ああ、虫を見つめていた。ああ、このことと同時にこのことを思っていた、いやこのことはずっと思っていた。

なんていう散らかりようだろう、どうやって辻褄が合うというのだろう。チャイルドポーズから顔をあげれば。こんなに混乱・泥濘をまねく出来事や言葉ばかりの世界で。

 

 

月夜には一円玉の軽い感じがよく似合ってきれいだと昨夜思った。お金そのもの、モノそのものが与えられたその役目から切り離されたとき、何の価値もない。または、透明で示唆的なそれに、自分が美しさを付加することができる。何の意味も価値もないのは一瞬。気付いたときには、そのときの自分の色眼鏡で見てしまっている。掃き溜めにしているときもある。

 

ああ、わたしはこうしていてこうしたかったんだ、と、言葉以前のツールで分かるときがある、腑に落ちるというもの。目の前の虫を観察する、映画館へ入る、そのような時間をもつと、そのときは来る。今、自分がはまり込んでしまっている映画館を一度出てみるということ。