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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

治癒のまわり、めぐり

崩れる過程、治癒の過程、それを観察する。ひきつけられる。「観る」ことはうっとりする。

 

観察は、「観察だけ」してはならないと思う。観察者が観察者であるためには、観察者自身が「私」でいなければならない。私のやるべきことをやるなかで、アンテナをどこにどう張ればよいか、というか、アンテナがどこを向いているかが自覚できる。観察対象の動向が、私が私であるときに自ずと入ってくる、というのが理想なのかも。

 

目に見えるだけに、子の治癒の過程を見るのはとてもおもしろい。すごく流動的なんだ。評価が流動的なんだ、ということ。見る基準がたくさん存在する。病院へは少し通うことになった。

事故が起こった時を起点とする言葉や、「死んだ皮膚」「生きた皮膚」という分け方がある。常に分泌し成長し死んでいくものが対象なので、いろんな地点のことを診るし、そのときによって相手に伝えることは選ばれる。

「今」患者のことを心配している「患者の母」に向ける言葉、「患者の父」に向けた言葉は違うだろう。これから何十センチも身長が伸びたときのことを話すことで、自ずと「今」が「彼」の「未来」や「成長」の過程であることに目を向ける効果もある。

 

生きるのがしんどいと思うとき、現実的(?。今、ここの延長線上)な未来に自分がまだいることを思うとさらにしんどい。と思う。やっぱりここで生きなければいけないのか、というわずらわしさや「絶望」だと思う。それで、人はパラレルワールドを創造したりする。…「居場所がここにない」と感じるのがしんどさの理由なんだろうか。しんどさ=負荷は、必要なのだろう。「しんどさ」を「しんどい」ととるかは別として。

 

傷が出来て世界がぱっかりと裂ける。「治癒」。ちゆ、というたゆたうような言葉へやがて私が、あなたがめぐり、到達する。傷のせいで歩くのが遅くなり、不自由になり、それらへ生真面目に向かい合ってそれをしているうちに。よろこびが鏤められていると思ったりもする。