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黒田潔 展『Water』/いとへん

黒田潔 展『Water』/いとへん

文章を強制的に書かないと、言葉を出さないと、すぐに思考停止すると思う。書いているうちに問題点が明らかになるのもほんとう。自粛の心はいけないなあと思った。のは、こちらの話。見つめるものについて語ると、隠れていた視点が獲得できる。

 

waterは、モノであって状況であって、瞳の一粒だった。流れる、こぼれる、乾く、なくなる、あふれる、固まる、可能性のあるもの。疲労、重たさ、知や生は、輪郭を意識することから発生すると思う。輪郭をうすくしてwaterを見つめれば、そのエネルギーだけが見えてこないか。その不思議な何かと一体化した作者の時間と会いに行ったように思う。

 

>ところで生きものにとって、ある道の角を曲ったり、ある戸の隙間から中へ入ったりという動きには、もともと小さな川をつくり出すような性質が与えられているのではないだろうか。日々の動きがくり返されて、ひとつの流れが生み出される。そしてこのあまりに小さな流れも、流れであればこそどこかで大きな川につながているということを、政治論の著作だけではなく、詩や戯曲や寓話も書いたマキャヴェッリは、底か考えていたように読まれる。

 

>見あげると、満月らしい月が、賽の目の入ったガラスの庇の二間幅いっぱいにわたって、白くて太い川となって流れていた。

 

>–いっそ、攫ってしまおおうか。

わざとひそめた声でそういってみると、妻は力なく笑った。

これほど家と心の奥へ入ってきている者が、なぜまだ客なのか。分らないという笑いだった。

 

平出隆『猫の客』より

 

ノンブルの文字間の大きさの、ふっと微笑んでいるような気配、墨を走らせた中に浮かび上がる(とわたしたちが認識してしまう)猫の、影。川の本質とwaterの本質は違う。waterの本質は何だろう?自らが潤っていること?重さをうちに抱えるもの?わたしがwaterと居合わせるときに意識の底で思った本質は何だろう?そう思った、と気付いたその「時」は何だろう?

妻の認識では客であるものが、わたしには客ではない。客という言葉を妻はどう認識しているかを、わたしが想像しており、自分のなかで、それを言わず、思っている、ということを、向かい合った妻は見て、何か思っている。

waterと居合わせる。ペンからこぼれる文字だと思う。街があり、わたしも流れており、街もわたしも川だと思う。すくいあげられない意識がそこらじゅうに、ある、と思う。

 

黒田潔 展『Water』/いとへん

2015年10月21日(水)~11月1日(日)
11:00~18:00

 


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