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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

手ざわりに裏切られ、続け、ながら・魯山のうつわ

西荻魯山 ROZANへ行った。小さいぼこぼこした茶碗というかぐい呑みを買った。鉄のように冷たく、土の浅いところを持ち込んだように裸の。コーヒーを飲んだりしている。小さいうつわはそれと組み合わせるうつわを思い浮かべさせる。いつでも気軽につかえる。いつか買った、もう少し上品で少女っぽい(最初はそうは思わなかったのに)一段深い茶色の、無理矢理飲みものを飲む用にしている茶碗と並んで、机に置いたままになっている。ほかさまざまなものが机に置いたまま。少女っぽい茶碗はわたしの飲み方や生活が変われば大人っぽく映るのだろうか。

 

「手ざわり」という。手ざわりを元に選んでいると思う。「手ざわり」というときに共通して思い浮かべがちな、「やさしさ」のこびりついたイメージがどうも嫌で、「手ざわり」ってわたしは言いたくない。「わたしがこれを選んだのはこのやさしさにやさしくされたかったから」と言っているみたい…などと思ったりして。「手ざわり」はシンプルに「手ざわり」なはず。時代の流れで、「手ざわり=やさしさ」という認識が植え付けられ、受け入れられてしまったのかな。そうしてしまった方が何かと便利なので。

 

布を逆立ててマチエールを出す技術があると聞いたことがある。硬質の、引っかかる、前へスムーズに進めない、違う私がいる、拒まれる、と同時に拒んでいる・いた、異質ということ。そのことを思い出させる手ざわり。世界がいくつもある。そう思い出させ、それに触れる私もまた、触れる対象に何かを思い出させる。わたしの心の使い方とは違う方法で、対象は何かを感じ、表現している。そうして風貌が変化する。

 

>未来の扉がとざされると、それでわしらの知識は、悉く死物となりはててしまふ

ハックルベリイ・フィンの一節(大江健三郎『晩年様式集』)

>短歌の伝統を磨きぬくということへの執心よりも、短歌に、今日の中に含まれる私を、どう歌いこめるかとうことについて僅かながら苦しんできたと信じるからである。こうしたわけで、必要上、発想や歌の形は徐々に変わって行ったけれども、私の歌の芯は厳然と短歌という定型である。この拘束の中で私はたぶん今後も苦しむだろう。

(葛原妙子『原牛』あとがき)

 

異質な何かが「手ざわり」であって、それに触れることではじめて「手ざわり」が立ち上がる。立ち上がるけれど、「手ざわり以前」の何かを、それに触れる私が抱えていないと「手ざわり」を感じられない。また、その「抱え」は過去ではないのでは、まだ出逢わないそのひと、そのこと、知っているはずの、その、それ、なのでは。触れる前に私がうつわになり、うつわが私になっている。