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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

お葬式を観察する

能面のような顔だなと言われたことがあって、このひととは合わないんだなと思いながら聞いていた。わたしはたぶん「疲れ」や「暴力」ということに興味があって、それは「生の果て、境目」の秘密がその状態に発生しやすい気がするから、と思う。欠けたうつわ、使い物にならないうつわを、集めている。

 

情動というのは自分の解釈だろうので、その徴にはすごく興味があるけれど、何かそれを決定のように扱うのは愚かだと思う。これは嬉しい、とても怒っている、悲しい、どうにもならない、エトセトラ。と、自分で決めないでいいのじゃないかな、もどもどとそれを浮かばせておいて、いいのではないか、と思う。わたしたちは曖昧なうつわだと思う。崇めるというのが、恐ろしいのだ。つけあがり、下手に考えてきたのだから、と思う。人というものは。わたしは。

 

お葬式は、、お葬式も、それぞれがそれぞれの状態によって、自分の儀式として淡々と迎え過ごすのが正しい(似合っている)のではないか。つくづく人間が人間のためにつくった(発見し、磨き上げてきた)儀式のように思った。

 

どこからどうお金が出て来るのかということも、

こういう時のために喪服のセットを用意しておく者(状態)か、半日ほどで何とかする者(状態)かということも、

幼い子と居合わせることも、

いかに自分が「ここではこうしないといけない顔」によって自分を演じているかということも、

子がその親と磁石のような関係であることも、

いかに普段、音も風景も選り分けて感じ取っている(感じ取れていない)かということも、

人は海から上がり、骨で立ったのだということも、

色は意味だということ、白は生命力のきっかけ、黒は死ということも、

常にすべてが動いておりそこをすり抜けることが出来るもの、出来ているうちが生きている時間だということも、

時間も理由も意味も無いということも、

人は人やもののために生きるということも、

これは箇条書きの意味で改行しているけれど、詩は空白を描くものでそのための改行だということも、

先の事を心配しすぎるものだということも、

限界や箱、うつわを人はつくるということも、

誰か、何かがわたしを思いわたしが成り立っている、と信じていることも、

すべて経験できない代わりに儀式を創作することは、人はできること、

そうして理解するのだ、理解するというのは問い応えることでもあって。

今までの逆のことくらいしか思いつかない、ということも。

その逆も。

お葬式の次の日に生理がきた。

人の声も物音も、何もかもすべて平らに流れながら直截ここへ向かってくることを、本来はそうであることを思い出すように感じ、ようと、している感覚はまだすこしあり、さまざまなもののさまざまな生命力に酔う。酔いながらわたしが波を返している。すこし妊娠初期に近い感覚でもある。とか覚えてもいないことばかりだし、書いた先からそれは違うと思っている。何もないんだな、ここは過去だ。という、剥がれた感覚で、落ち着いている。嘘ばかりつくけれど嘘をつく意味はなく、実を、求めるというむなしさなど。

 

あと、観察者がいる、要る、ということも。