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第10回中之島映画祭『金井勝の世界』 つづき

《王国》。たしかに凄かった。

鳥の子宮へ入って行くのだ(子宮じゃなくて肛門だった)。そのなかを通過したあとはもう、ただ、「包まれ、安心している世界」にいるよろこびを感じていた。わたしたちはみんな、包まれ、安心できるところが好きで、そこにいることを生きると言っているだけなのだろう。ここは子宮のなかで、触れる空気に口づけをされていると感じることができているから、生きていられるのだろう。ほんらいは、生も死もないんじゃないの。地図上にあるこの世界にわたしはいるのかもしれないけれど、時間や空間という遊びのルールが改訂されたら、わたしはここにいない。それを悲しいと思うかもしれない(何にとって?)、でも新たなルールに照らし合わせてみれば悲しいと思うのは間違っているかもしれない。

 

金井勝さんの話があった。

「お前、時っていうのはごうごうと過ぎていくものだ。次の作品で頑張らないと見放されるよ」と言われ、「そんなこと分かってるよ!」という気持ちでつくったものだという。

映画は冒険だけれど、もっと冒険しないといけない。超主体性を味方につける、偶然フレームに映るものを、その時に居合わせる偶然を採用して作品をつくる、その弁証法をやっているのだと。

 

鳥のけたたましい声はサイレン、爆撃、悲鳴。「どこ行くんだよ、おい待てよ」という声を覚えている、、けれどこの映画だったか忘れてしまった。自分の叫び声をわたしたちはこの世界で聞いていて、反響し合っている、その間をすり抜けている。まともに反響する音にぶち当たってしまったら、生きていられないのではないか。時間や空間がはっきり分からないからこそ、すれすれ命を持っていられるようにも思う。どこへ行くというんだろう。待つということを、わたしは、ほんとうにできるのか。

 

人とはとても恥ずかしいものなのかもしれない。やっぱりそうなのかもしれない。生にとって生きておらず、吹く風にとって邪魔なところに立ちつくしている。

そんなことも思うし、心がなにかをつくるという、そのことも思う。