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hidden design

大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

物という剥き出し

「書くという語の剥き出しの裸が残る」

 

>技術化の今日の運動を、数々の技術が絶えず増加し、変容して、ますます稠密になっていくネットワークを織り成すような、加速され繁茂する運動として描くのは当然である。

 

>狂騒に至るまでの増大と多様化は権利上、そして本質的に、補填するところのものに しかもその際、補填されるもの(内在性)がいつか存在するに至るいかなる機会もなしに 属しているのではないかどうかを、いかにして考えないでいられるだろうか。

 

技術を手がかりとして、それを高めて思い描くもの(思い描きようのないもの。もっと底のもの)に近づいていくことは、その、自らが描きつづけてきたものを食いつぶしはしないか。

根本から間違っていないか。と思いながら進む方法もある。

 

>他方では、諸技術と絶滅、収奪、擬制との複雑な絡み合いが正当にも指摘されている。しかし、絶滅、収奪、擬制を、悪魔的実体としての「技術」に帰することに意味はない。というのも、かかる実体は存在しないのだから。とはいえ、諸技術の「悪用」についての道徳的言説を行うことはもはや問題ではない。先在する「善」の名において「技術を善き方向に=良識的に使用する」ことが問題ではない。実存の〈意味〉である限りでの「技術」の《意味》にまず接近しなければならないだろう。

今や世界的に明白に不可抗的な技術化として現出しているものは、自己以外の目標をもたないといって告発されている…

技術の支配は、おそらくひとつの「仕事=作品」のこの完成を逸脱させ移動させ、かくして技術化は「仕事=作品を奪われた無 為」と正当にも呼ばれうるだろう。

 

>読解はエクリチュールを他所で、別の仕方で再 記入することでしか、エクリチュールを自分自身への外へと外 記することでしか、エクリチュールに追いつくことができないのだが、このような読解はまだ始まっておらず(読解の始まり、つねに再開されるその開始である)、それは解釈し、意味づけさせる準備も整っておらず…

 

>「外部」 全面的にテクストのなかに外記された とは、それによって、各々の実存が実存するところの意味の無限の退却である。生まで物質的で具体的な、意味の外にあるとみなされる、意味が表象するところの所与ではなく、それによって実存者が現前へと そして不在へ至るところの「空虚な自由」なのだ。

>意味の場所そのものであるけれども、意味を有さないものなのだ。

 

「書くという語の剥き出しの裸が残る」(ブランショ

 

技術を高めること、良く、善くなろうと望み求めることは、その底にある意味を思うことの技術を磨くこと。技術によって不幸を招くことは、根本から間違っているということ。その技術の見方そのものが、間違っているということ。目の前にわたしたちがつくりだしたものに、振り回されてどうするんだろう。

自ら、書き、聴き、見る、ということは、「受」けとる、「受動」することだと感じる。こだましあう「ここ」に立ち尽くし、意味を成している、また、剥がされたくそのために成している、物という剥き出し。

 

ジャン=リュック・ナンシー 合田正人 訳『限りある思考』

 

限りある思考 (叢書・ウニベルシタス)

限りある思考 (叢書・ウニベルシタス)