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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

私がいない モランディとペソアの震え

灰色の埃についてこんなにページが割かれている、と感動したのは『ジョルジョ・モランディ』(岡田温司)。つづいて、『ジョルジョ・モランディの手紙』(岡田温司)と『不穏の書、断章』(フェルナンド・ペソア 澤田直/訳)を読み直した。「目に見えるよりも抽象的な世界は何もない」とモランディはいう。彼にとって絵を描く行為=思考であったことはきっとたしかで、そこに私が現れたり埋もれたりして震えている。その震えがペソアと似ている、と思った。私を通して存在を思考しているのも。

時は、流れない。私は、いない。いや、時は、…

 

「空想的で抑えがたくも抒情的な推進力」が「自由の極限に達すると、気まぐれやアナーキーへとたやすく引きずられ」「なんとしても独創的なものへと向かい、あらゆる伝統的秩序を転倒させようとする」し、「構成的で組織的な推進力」がときに「秩序と論理と規律」の意志を強固にし歪ませる。これはいつの時代もそうだろう。時代が繰り返すということは、時が流れていることだといえるのだろうか。私が考えることは、私がいるということだといえるのだろうか。その逡巡を切り取ること、種をとり出すことを、震えの人たちは考え、試行錯誤したのではないのだろうか。

平面はどこまでも平面である。三次元を無理矢理平面におろしてくることによって何が発生するか。平面におろされたものをある「絵」だと認識できるのは、「対象についての客観的で引き延ばされた、一方向的な知識に由来する」。そう、「絵」が発生するだけだ。認識したとたんに、見えなかったものが見える。逆に、見えていたものが見えなくならないのだろうか。こうして、「モランディの根源的な探求がはじまったのだ。」

 

影と光を見ること、遠く深く高いところへ向かうこと、美の原理がそこにあると感じること、それらは絵が与えてくれる恩恵かもしれない。人が〈それ〉を切り取り表すこと、現すことは、新しい状況をつくり出すことだろう。そして、露わにしては壊れてしまうことを震えの人は知っている。「主題における強迫観念」的なものも、わたしたちは抱えがちなのだ。晩年、抽象画の域に迫ったモランディがなぜぎりぎりそれを物体だと認識できる域にとどまったか。ペソアが未完の作品ばかりを残したのはなぜか。名に責任をもたせず、未完という「呼びかけ」や「開け」という魔法を残したのではないか。

 

「私は自分自身からなにを引き出すことができようか。私の感覚の恐ろしい感度と、この感覚を生きるという事実自体にたいする深い意識…。自分を破壊するために用いられる鋭い知性と、気を紛らわそうと渇望する夢の力…死んだ意志と、それをまるで生きている自分の子どものように揺籠にいれて揺する考察。そう、編み物なのだ…」

「昨日と同じことを感覚することは、感覚ではない」とペソアは書く。そのときにペソアである人は。ゆっくり描くことでこそ速さを得るといったモランディを思う。輪郭をつねに探り当てようとしながら、影から浮かび上がらせ、沈ませ、積もった埃の奥を透かそうとするものこそ対象そのものだろう。そのときにはじめて、絵を描くという行為は行為になる。「最初で最後の」。細かな細かな、乗客として乗り合わせた女性の緑の飾りの揺れを観察することでペソアは一生分を生きた。

 

「私が表現が好きなのは、それがなにを表しているのかまったくわからないからだ。」

「はたして私は、自分が感じ、考え、存在していることぐらいは知っているのだろうか。私はなにも知らない。知っているのはただ、安物のゆらゆら揺れる小さな鏡のなかの色や形や表現の客観的な図式だけだ。」

これはペソアの言葉。

「意識の意識のように」

これはペソアが書き残したアミエルの言葉。

 

「モランディの行為のなかでつねに表現されてきた人間的なもの」「ペソアの創出した虚無の世界は、われわれのうちに巣食う〈わたし〉という空虚を逆説的にも解放してくれるのである」

 

 

ジョルジョ・モランディの手紙

ジョルジョ・モランディの手紙

 

 

 

不穏の書、断章

不穏の書、断章