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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

ボタンをかけ間違えつづけていること

何かボタンをかけ間違えつづけている、という状態は把握できていて、そのボタンをかけ直したい、と思うとき。ボタンをかけることができている人の話を聞きにいくと教えてくれる。教えてあげる人は教えてあげようとするし、聞く人は聞くことができている。言ってくれていることを理解できている。やり方を聞いたり観察して理解したと思っても、ボタンをかけ間違え続ける。

 

ボタンをかけなくていいのだ!

ということではなく、人の話を聞いても、やっぱり、無理なんだと思う。このボタンをその人はかけたい。このボタンを見なければ。そして、教えてくれる人もそれを分かっていて、「ボタンを見ろ」と言ってくれている。聞く人は「ボタンを見なければ」と聞く前から分かっていた。

 

ボタンが教えてくれるのだ!

ということでもない。

自分にできるペースで、自分でかける。ボタンから作り直してもいい。でもそのボタンがかけたいのなら、ボタンを自分がかけていい。ボタンはかけられるままになってくれ、きっといい感じになる。

 

その感じが、お正月休みの最後の日に子とお風呂に入っていてすこしつかめたような気がした。自分はいつも何か「間」が悪いなという自覚はあって、それが良くはたらくときも悪くはたらくときもあるのを知っている。それはたぶん自分を数え忘れているとか、そういうことからくることかと思う。子どもが相手だとさすがに子はわたしのペースを見て真似したりしてくれるので、相手任せにできない。

ものすごくゆっくりしていて、無意味なことをわたしはしておらず(無意味と分かっているのにしないといけない気がしてしてしまうようなこと)、その感じが赤ちゃんの時以来だった。甘えてきてどうしたらいいのかどぎまぎした日だった。

 

「育児書を読んで子を見ない」と同じようなこと。子を見る自分がいる、ということ。主体の話。