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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

中井正一『美学入門』、保坂和志『小説の誕生』 

時間について。時間を使えばそこから時間があらたにうまれるような気がする。

 

『美学入門』

artは何だろう?

「映画眼」ということが書かれていた。見ることは、「どこから見るかを決めること」だろう。人がある位置に立ってものごとを見るとき、必ず見失う視点がある。1つのシーンを何度も何度も多方向から撮り繋ぎ合わせることで「事実を再現」できる。

「体系空間」のことも書かれていた。人としてある位置に立って見ることは、ただひとつの真実をその個人だけがその時だけに知り得ること。「世界をまとめることの中心が各々の個人にその基底をもっていることを意識すること」。これが主観。

「意欲の主体」と「認識の主体」をひとつにすると「我」というwunder(ドイツ語?ショーペンハウエル)になる。

 

>直観は「現在」で、思惟反省は記憶すなわち「過去」である。ほんとうの存在は、生きた生命、流動している生きた現在、すなわち純粋な直観というようなものになってくる。速やかに流動するところの時間の流れの中で、感情とは、この「過去」と「未来」の二つのもの、いわば「現実の存在」と「可能の存在」の媒介者となるのである。

しかし、第一次大戦、1918年度、機関銃の音と負傷者のうめき声が耳にのこっている参加者たちが年老いて、これを知らない子供たちが青年となった1932年までの文化は、傷ついた集団機構と傷ついた個人の絶え間ない闘いであった。目に見えない芸術の戦いがひろがった。表現派は人間性の回復を叫び続け、ダダは常に嫌だいやだと叫び続けた。人間の戦線は戦いに反対し続けていたにもかかわらず、夢魔のごとく第二次世界大戦は起こったのである。

やがてそれが終わり、煙が地の上を低くはって、すべてのものがその新しい傷口を吸う時になってみると個人は巨大な機構、機械時代の大組織の中に冷たく肌を密着させていたのである。

こうしてすべての哲学は自分の無力を感じはじめ、すべての美学はあまりにも多い、自分の方向をもてあまし、芸術家もが、そのよって立つあまりにも多い自分の中に自分自身を見失ってきたのである。それはどんな展開をもって未来に臨むだろうか。

>自分から抜け出したい自分の弱さにあきあきしていながら、しかも、脱出しきることの出来ない嘆き、これが現代の自我の本当の姿ともいえるのである。

プルーストのいうところの「認識の達しない深みにおいて、自分自身に巡り会う」というのは、こんな淋しい魂が、今こそ、本当に生きているという時間を持ちたいという願いのあらわれである。

 

言葉は底が抜けている、と保坂和志が書く。制度という枠組みがあり、私という枠組みがあり、言葉というものは共通理解道の道具になり下がることがままある(と激しく書いているわけではないけれど、すごく熱くのろのろと同じようなことが書かれている)。一生では足りないほどの時間をかけ、遠く遠くまわりみちをすることで、その「枠」という概念そのものから抜け出し(抜け落ち)、私でない私の延長を獲得することができるかもしれない。できないかもしれない。そういうことを書いていた。

 

だから…自分というものの根拠のなさがよりどころになる。時を使うことで時をつくり、時を渡したりもらったりすることで「渡す」「もらう」という関係のわけを分からなくする。渡ることを夢みてかけた橋を渡り夢を壊し、その壊すことでほんとうに渡るということを実現させる。根拠のないところに立ち、ふらふらと踊ることは、幸せや不幸せということのわけを分からなくするかも。それは、なんだか、ぐっとくることなのかもしれない。

 

 

美学入門 (中公文庫)

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小説の誕生

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