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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

母をおもう短歌から

夜学より帰れば母は天窓の光に濡れて髪洗いゐつ

春日井建

 

もういちど生れかはつてわが母にあたま撫でられて大きくなりたし

前川佐美雄

 

子は母を個人としてというより永遠性につらなる媒介としてみており、とっても愛してしまう。母は自分の肉肉した感じに実感があって、子を個人としてみてしまう、夢中になってしまう。というときもある。母も子も、視線が交差することなく見つめ合いつづける。

 

人間にできないことはすごく多い、と子が教えてくれた。口から炎を出したり、目から血を出したり、カメハメ波を出したり、瞬間移動もできない。

人は何もできないと思う。心を使うのが人の特徴かなと思う。何かをできるようになりたいと思い、やってみているときに気付くことは、自分の苦手なことが具体的に把握できること、すこしだけ視野や視座に変化ができること。

人はほんとになにもできない。言葉は何も意味しない。だから、言葉や行動で人やものごとを変えることができると思っている場合にしんどさが生まれると思う。

 

また、

環境は自分が何かしようと思わないときほどめまぐるしく変わり、それについていこうとするときに、自分が自分の自我のことばかりを考えていたと気付く。今ある自我を存続させるためにある何かを守ろうと、がちがちに抱くために腕をあげようとしても動けない。そのような、鏡をいやでもみてしまう時期はそれぞれにある。

 

また、

小さい子は、けっこう自分のすることを「してあげている」こととしてとらえている。と思う。「(自分の描いた絵を)見せてあげる」という言葉にへええと思ったことがあった。なんか、そっちの意識のほうが「相手のため」を思っているように思う。相手をよろこばせるのが自分は嬉しい、という心の動きだけが、成長をうながすのではないか。いろいろなことに出会ううちに目の前の不安など印象のつよいものにとらわれ、目的がどんどん小さくなっていくこと、何をしたいのか自分で分からなくなることはとてもよくあり、そういうのやだなあと思う。

 

母と子という関係が美しくみえるのは、詩にみえるのは、表現されるのは、わたしは相手のことを何も知らない、変えられない、という永遠のすれ違い、諦めと、その向こうのあこがれがそうみせるのかと思う。母と子とはそういう、郷愁にも似たあこがれが発生しやすい関係性なのかもしれない。

「私の自我は知っている。私はなにかを私の思い通りに変えられる」と信じ合い(「信じる」という「何か」はない)、そこにたしかに立っている確信から情感を引き出してくる表現や感覚は、肉肉していてわたしはやだなあと、思う。それを善として慰め合う感覚も。

けっこう、この罠に陥ってしまう場面は多いのではないか。

 

人の言葉をそのまま理解できることはない。ほんとうに理解するということは、自我でも何でも利用して、瞬間移動のごとく、とにかく、「理解する」ということ。人はだから、瞬間移動できる。ともいえる。