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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

世界をふたたび見るために

タイトルの言葉はルイジ・ギッリ『写真講義』より。

現在、市場はすべてエンターテインメント化しているという。「エンターテインメント」とはどういうことかというと、「良いか悪いか」ではなく、「好きか嫌いか」というところで商品価値が決まること。

ほかに定義する方法もあるだろう。とりあえずこの定義をもとにいうと、モノを手に入れたい、サービスを受けたいと思う起因が「好きか嫌いか」によるようになったので、そのときの消費者の「気分」によって需要がころころ変わる、予想がつかない、論理的な理由がない。マーケティング戦略のたてようがない、何が当たるか分からない、ということだそう。

このエンターテインメント化が「良いことか悪いことか」考えたい、という話ではなく(それは意味がなく、ずるいと思う。というか意味がないと思う。「良いか悪いか」という自分の土俵に、「好きか嫌いか」という別の基準のものを引きずりこんできて文句をいってやろうという意識がみえるので)、そういうことたちを自分はどう見たいだろう、自分のやるべきことをどうやったらいいのだろうと思ったりする。どうやって、生きていったらいいのだろう。「好きか嫌いか」というひとつの基準のなかで生きようとしないことは大事だと思う。

 

ルイジ・ギッリの『写真講義』はすごく良い本で、大好きになってしまった。

この、「良い」と「好き」という別のベクトルを目指そうとする何かが、情動としてどうしようもない感じで自分のなかから湧いてくる感覚は、ある基準になると思ったこと。

「良い」を求めたい気持ちもあるし、「好き」を知りたい気持ちもある。

動画をつくるおもしろさは、音との合わせ方、画のつなぎ方、秒数の合わせ方。環境を利用して素材を合わせることで、人の記憶のなかに介入するような揺らぎが生まれるところかと思った。

見せる相手のことを分かっていて画を重ねたりすると、ほんとに人の記憶をのぞいたような妙な気分になる。

表現するツールは、直感的な操作がいかにできるかが大切だとたしかに思う。コンセプトが明確で、そのコンセプトや理由に沿ってつくれば、表現すべきそれは生まれる。「感動系」はかなり簡単につくれる。つくったそれは嘘ではない。見る人の内側の何かを揺さぶる装置は、簡単につくれるということだと思う。そういうことを思い知った。

そして、そのあるひとつの分かりやすい情動をモノとして鑑賞して飽きて次のモノを求めて消耗する図もある。

相手の「好き」なモノ、ものを、方法をさぐって追求したらつくれる(「モノ」は結果、「もの」は理由?モノは理由、「もの」は方法?…)。

それは、制作するなかで、「好き」の媒介になる「表現物、作品」と制作者がもっとも親しみ知り抜き合うことで、あるタイミングや方法が生まれることでそうなるのだと思う。
そこには目的がある。なんとなく、自分が求めるものは、制作するなかでその目的に沿わないもの、異質なこと、記憶(古い、新しい記憶。思い出せないことは記憶だとしたら、未だ経験していないことも記憶)をひらき、動かしてくれるような何かなんだと思っている。

 

何か形あるものができる。それは役目を果たす。ほんとうは、果たしてしまってはだめなものもある。役目を果たしたら、もう、そのものごとの「意味」はない。

広告の役割とはもうとっくに変わっていて、何かを制作するなかで意味があるのは、「好き」にときどきからんでくる「良い」だったりするような、逸れたもの、はみ出したもの、そこにいては意味のないものではないかと思う。

自分はそう思って何かをしているんじゃないかと思った。広告などほんとうに嫌いなのに、と思っていたので。でも広告は嫌いだな、でも何をつくっても広告は絡んでくるので。

…そう自覚して、あらためて、もっとまじめに見やすさや読みやすさについて勉強しようと思った。とにかく迂遠なものが好きというか信用できると思っていたのは、それは、ちょっと自分は表面だけ見過ぎだと思う。

 

固定されたイメージ、つまり静止画は、読み取ったり考えたりする時間、つまり掘り下げる時間を与えます。

 

写真講義

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