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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

今やらなくてはいけないこと/署名について/目線について

今わたしが急ぎでやらなくてはいけないのは、やりたいのは(自分の仕事に関しては)、ポートフォリオ作り。

いくつかの作品(というか)を見直していて、自分で気に入らなかったり物足りなかったりして、というか、クライアントさんなりに許可をとらないといけないと思う。

…なので、作り直した方がいいなあと思って、思い続けて、何カ月経つのだろう。
いや、でも、やっぱり環境が整っていないとこういう作業にかける時間はとれないなとも思う。

 

でも、時間をある程度とって作り直すことがなかなかできないでいるのは、これが自分の「横顔」になる、これでわたしという商品が判断されると思うから、という理由が大きい。

「署名のあるものとないものの違い」「感想と批評の違い」「デザイン」と「アート」の違いなどというのがある。あるように思える。

「とりあえず、署名なしのものを『感想』、署名ありのものを『批評』とする」という考え方がある(永江萌『〈不良〉のための文章術』より)。そのくらいの違いなんだ、と思う。

 

自分のこととなると、力が入ってなのか、なかなか作り始められない。

頭でっかちになっている、とわかる。よくある。

 

こういうときは、

・誰かのためにつくる

・とりあえず目についたものをもとにテーマを決めて手を動かす

・放っておく

ことで、こだわりが抜けて自然に作り始めるもの。

 

「自分のこと」なんてないのだと思う。

 

そして、今、痛切に感じるのが

・いちばん自分が気になっていることにすっかり気づけないでいる

ということ。

 

常に不便に思ったり違和感を感じたりしているはずのことにいつのまにか慣れて、その不便さに対応する姿勢をとっている=自分の根本が盲点になっている。

作ってみたいこと、考えてみたいことは、たくさんある。

 

 

たとえばヨガでこれを解釈してみたい

(わたしは、ヨーガ療法を先生について勉強していたのだけど、今はまだ、その奥が深すぎてふわふわキラキラした感じでしか人とはヨガは共有できないと思う)。

ヨガに「目線」というポイントがある。「ヨガ=智慧を使って生きるための科学的な方法」と見立てたうえで、「どこをどう見るか」というポイント。

さまざまなアサナ(ポーズ。なお、ヨーガもヨガも同じ。アーサナもアサナもポーズも同じ)をとるときに、「ここを見ることでよけいな力を入れず自分のもてる最大限の生きる力を発揮できる」というもの(ざっくり、自分の解釈で)。

その目線は、そのときその人がその周囲との関係性において獲得しまた与えるもの。「見る」訓練をすることが人生の苦しみを乗り越える力になり、見るべきものを見る訓練になる、というものだと思う。

 

とりあえず手を動かしてみると、はっ、こんなことよりいちばんやりたかったことをやらないと、と思う瞬間があり、その瞬間にがらっと自分の見る世界が変わる。

これが、たとえば右腕を首の後ろにまわしてみることによって顎が引き上げられ、おへそが意識に上がり、目線がぐっと上にがり遠くを見据え安定すること、するっと肩の力が抜け胸が開くことなのだろう。

 

どんなものを作るか、自分の〆切を意識しつつ考えているところ。

 

 

これも。

しかし、内在とはどのようなことか、一つの生とは何かについて、ここでおよそ最も厳密な思考を差し出している。饒舌とは無縁のその透明で厳密な言葉は、まるで、まもなくみずからの意志によって現実化させることになる一つの死が、どんな出来事であるかを告げるために書きつけられたかのようだ。

書かれているのは、たった一つのことである。すなわち、一つの生とは一つの特異性であり出来事であるということ、そして、その特異性−出来事は一つの純粋な内在面においてのみ、それとしてみずからを指し示すということ−これである。だが、この単純な事態を、なんと多くの概念が、なんと多くの思考の習慣が見えなくさせていることか。

ジル・ドゥルーズ 守中高明・谷昌親/訳『批評と臨床』)

 

 

 

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

 

 

 

<不良>のための文章術 (NHKブックス)

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