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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

第75回日本哲学会大会シンポジウム

本を読むのと話を聴くのとは、ぜんぜん違う。哲学はより「言わない」ところにこそ聴いて理解するべきものがあるとはっきり思った。文章になったものを理解しようとするとき、あんなに難しいのは、だからかもしれない。

ただ、話を聴き終えて文章を読んだとき。〈ある感覚をもって自分に近く深く時間や言いようのない何かの感覚・感触をもって理解が進み巡るあの感覚〉を、自分のなかで検証できたと思う。貴重な体験だった。

また、「会」に「入る」と、「門」を「くぐる」と、そこに空気がありルールがある、ことになる、ということもつよく感じる。見えなくなるのは簡単。

 

ハンナ・アーレント『活動的生』を訳した森一郎さん。

質問に答えたときの言葉がとくに印象に残った。

がんじがらめでどうにもできない状況に、否応なく巻き込まれるときはある、そんなときばかり。それでも、哲学するためには距離をおく必要があり、それはできる。その状況に〈「これはいったい何なんだ」と戦慄を覚える〉自分がいると感じるとき、すでにもうそこにはいない、距離はできている。

そこに哲学のエレメントがあり、隙間ができ、その存在を大切にしていくことが哲学のはじまりを為すものだと思うということ。

 

ギュンター・アンダースアンスコム加藤典洋などをとりあげる。

うかつにも自らにいちばん近いことが盲点となり、根本的に考え議論するということが日本ではできていないのでは。戦後から何も進んでおらず、そこには、自由にしつこく考えるということを「できない」ものとして取り扱う癖がないか。

 

原爆を落としてもらい、状況を整えてもらい、無条件降伏があった。それまでの間、すべての罪のない人を巻き込み、「勝つ」と信じていることになっている、ということを信じていた感覚を連帯していた(ことになっている)ということ。

「そういうことがあっていいのか」と素朴に思うことは、けっこう根本的に考えることがないまま、無視されている。

 

 

林永強さんの「責任」と「責任感」のあいだの話。「責任を問う」という。その〈方法〉を考える必要性や、「責任を問う」という方法でその対象や状況にどう還元され巡るのかということ。

他者へ「情」を満たすこと、「理」で答えること、その、合一をめざすもの。

この方の話は、もう終わる頃になってやっと核心がじわーっと理解できてきた。

自分のあらゆる「つもり」に思いを馳せることになり、愕然とする。「感」を要求して慰める部分、それ自体を生かすために用いる「理」の方法、「感」「情」を使うための「理」の 方法などを思う。あと陰陽のあの図や。

 

 

品川哲彦さんの話は聴けず、質問の時間のみ。日本語を使うことは、日本語にのせられてきたある「呪い」(とは言っていなかったはず)をも疑うことなく自分のなかにあらかじめ取り入れてしまうことでもあるだろう。そこを克服しようと思って学んでいるということ。

 

 

キャンパスはしずか。門をくぐった瞬間、車が走る音や人の声が消える。落ち着いて自分の選んだものごとに取り組むために、このしずけさはすごくいいなと思った。しずけさにまもられている、という安心感が一気に湧く。

答えを決めて先へ進むことが、正しいことなのかどうか、そんな話も出たと思う。

 

 

 

第75回大会(2016年5月京都大学) | 日本哲学会

Meiji Gakuin University Institutional Repository: あるアメリカ人哲学者の原子爆弾投下批判