読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hidden design

大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

シラクサ/監督:クラウス・ウィボニー(神戸映画資料館) たったひとことに会いに

今しか、これをこのように見ることができない。

 

赤い花と草が揺れた映像のあたりでそう強く、一瞬、思ったこと、

あとは最後の監督への質問と答え。

自分にとってのポイントはそこだったと思う。自覚する限り。そして、自覚できていないポイントにまみれて今ぼんやりしている。

 

映画を観に行くのは、混乱しに行くためかもしれない。

「何かに会いに行く」ことの目的は、みんなそう。

「たったひとこと」や「一瞬の景色」に揺さぶられることが、必ずある。

その帰りや後日、会いに行ったために気づけるささやかで大きなことが。どうでもよく、また、どうでもよくなどない、とても個人的なことが。

 

詩をどう受け取っていいか分からないという質問があった。まずざっと読んで、自分の気になったところへ戻って、そこを繰り返し読むこと。ひとつのフレーズでも心に残るものがあればそれでいい。そういう答えをクラウス・ウィボニー監督はしたと思う。

ぼんやりしたものを投げられ、具体的な言葉で返したのがすばらしかったと思う。ぼんやりしたものを率直に投げたかたも、とてもよかったと思う。

 

 

週に1度、自分で時間を組み立てることができるようになった。

今までできなかったことのうち、

・まとまった時間がとれなかったから出来なかったこと

・まとまった時間がとれないせいで出来なかったんじゃなかったこと

が明らかになってゆく。

すごいスピードでこういう時間は流れていくけれども、「集中してぼんやり」できるようになってきた気もする。

「時間をかけるということを考えること」ができるようになってきた。

きのうすごく何もできなかったなー!と自分がいやになった、けれど、その「いやになる」感覚は過去(きのうや今までのすべて)の自分の置かれた環境に対する言い訳や愚痴であって、

これからを考えようと思い直せば、そんな無駄なことを言ってはおれず、自分が出来たことに気づき、肯定していくのが正当な感じがする。

 

自分はとくに子供が生まれてから、本気でぼんやりするときがある。電車に乗ってうまく目的地に着けることがけっこう珍しくなってしまった。人と約束があるとまだ大丈夫、ひとりだとアウト。

そのため、シラクサもほぼ終わるというときにすべりこんだ。

そういう面の、諦めはついている。また、そういう面で、そしてまた他の面において、とってもケチケチしている。とつよく思う。自分のそういう価値基準のもちかたに疑いがある。

 

「見る」などというカテゴリーを、わたしははたして今後使うのだろうか、、。カテゴリーや数、立体的なこと、そういったことの判断や捉え方が、自分は苦手だと思う。どこまでも平面的にうねってゆく。また同時に、苦手と思うことへの思い込みや近さに、こうやってぼんやりして向き合っているのかもしれないと思う。