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渡邉恵太『融けるデザイン』ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論(覚え書き1)

メタメディアとしてのコンピュータ

コンピュータはそれ自体では道具ではない。あらゆるメディアをダイナミックにシミュレートでき、あらゆるものになれる。」という意味のことをアラン・ケイが言っている。

 

コンピュータができてしまった(=コンピュータという概念ができてしまった)。

コンピュータは計算機。あらゆることに使える。どう使えばいいか分からない。

コンピュータ=知的増幅装置ととらえよう。

たとえばこう使う、ということを混乱している人に示すためのGUI(グラフィカルインターフェイス)を提供しよう。その中核となるのがメタファ(比喩、見立て)。さまざまなメタファとしてのアプリケーションを標準搭載したのがApple

 

●「何でもできます」と言って手渡すことは、「何もできません」と言っていることに等しい。

ここで活躍するのがHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)の概念。

コンピュータと人、コンテクストと社会…コンピュータと人、生活の関係を設計し、定義していく(ここで、「更新」が重要なポイントとなるだろう)。

 

●コンピュータの性能=インターフェイスといっていい。

インターフェイスとは接点、境界面、橋渡しの役割を担うもののこと。

つまり、インターフェイスを変えればすべての状況が変わる。インターフェイスのコントロールを意識することが「何か分からないもの」を生かす手段になるということ。

●メタファによって「この世ではじめて生まれたもの、実世界には存在しなかったもの」がある。

TwitterFacebookなどがそれではないか?

かつて体験したことがない「時空間」を有することができるようになったのでは。

 

これは、メタメディアに加えてインターネットの掛け合わせによって、もはや私たちがかつて体験したこともない時空間を有したということである。星でたとえるなら、地球から飛び出て月の上で、地球とは異なる物理法則や気象現象などのもと、新しい街や生活をつくろうというようなことに近い。そこで、「やっぱり重力があったほうがいいよね」ということで、地球のような生活を実現していくのか、「無重力をうまく使ったほうがいいよね」ということで、月らしい生活を実現していくのか、そんなあり方に近いかもしれない。

 

●コンピュータが個人に行き渡り、インターフェイスそのものをとりあげて考えられることも多くなってきたのでは。

「手段であったメタファが目的になってしまう」事態は案外多くない?

いま、あらためてコンピュータの原点である「知的能力の拡張」という機能について、コンピュータでできることについて、これからのコンピュータについて考えていきたい。

○メタメディアを「メタファではない方法」でその性能を引き出すこと

○さらに、新しいインターフェイスを構築「してみる」ことは有効ではないか?

UX(User Experience)の重要性は、メタファを超えて人間が価値を感じる体験からメタメディアを定義、設計していこうという流れ(フラットデザインがそう)。「新しい何か、まだ見ぬ〈体験〉への憧れ」があるのでは。

(この〈体験〉も大事なキーワード。たとえば、どこからどこまでが「自分の」「体験」といえるだろう?)

 

 

融ける道具

人にとってモノは、道具的存在(透明の状態)と事物的存在(透明ではない状態)の間を行き来している。

例) スムーズに文章を打ち込んでいるときにキーボードの存在は透明になる。また、間違ったり調子がのらないときはキーボードの存在がどこか引っかかったり重くなるように感じる。

 

●「ユビキタスコンピューティング」はその「道具的存在=透明の状態」を目指した技術の考え方。「人がコンピュータを意識しなくなる世界とは?」ということを考えている。

●デザインだってインターフェイス。モノが個人の生活にどうやって組み込まれ、どう生きていくかを予知する能力がデザイナーには必要。

経験価値とは、デザインによって人が知らなかったことを体験させるのではなく、もとから知っていたことを気づかせること。ほんとうに見えていることとは、秘密のなかにある。(深澤直人

 

人間の知性は脳や心で説明しなくても、人−環境をシステムとして捉えていけば、知性の性質のかなりの部分が説明できそうである。(ギブソン

(略)

このアプローチが、インターフェイスの設計やものづくり全般に都合がよいのだ。

 

 

 

道具をどう使う?

●知性の所在はインタラクションにあるのではないか。

 

人間の知性にとって脳は身体における機能の何らかの役割はしてはいるが、それが原因というよりは、環境とのインタラクションの結果であり、知性の所在はインタラクションにあるのではないか、ということがうかがい知れるのだ。

 

つまり、「メタファを想像して理解していく」方法からより根本的なところに戻って、「体験しクリエイトすることで理解していく」方法がいまの流れなのでは、ともいえそう。

 

 

透明「性」について 透明も不透明もはじめから見えている

 

私たちはボールを掴むときに、「私の手がボールを掴む」などとは表現せず、「私」は消えている。なぜなら「私が掴む」のだから。しかしギブソンの指摘は、この当たり前である「自分たちの手とボールを同時に見る」という表現をする。

 

活動のほとんどの状態に、自分は「自分の手も」見ている」

 

私の行う操作・行為すべてに「手」が登場しているのに、それが意識に上ってきていないが、手を情報として利用しているのである。

 

相手に合わせ、多様にかたちや方法を変えて。

 

手は触発されるものでも指令されるものでもなく、「制御される」ものだと考えるべきである。

ギブソン 古崎敬/訳『生態学的視覚論−ヒトの知覚世界を探る』)

 

 

そこからどういう言葉を出してくる?

この本で出てくるのは「自己帰属感」。

 

(つづきます)

 

 

融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論

融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論