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立ち止まり、捨て、流す ドミニク・チェン『電脳のレリギオ』

飲み込まれそうな「情報」とどう付き合っていくか

人の心理とはこんなに「操れる」ものだったかと、SNSでも広告でも、文学でも証明されているといっていいでしょう。「代理店」が大きくなりすぎて、でも、これも当然の流れだったのかなと思います。

 

ただ、自分でつくったもの(感情もツールも)に翻弄される、目的を見失う、というのはやっぱり違うのでは。情報の「扱い方」とは難しいです。

 

 

「情報」という言葉

「情報」という言葉は、19、20世紀の中頃まで、主に軍事的な文脈において「訳語」として定着してきたそうです。

フランス語のrenseignement(ランセニュマン)、英語のinformation、そして、ラテン語のinformare(インフォルマーレ)から来ています。

inは、〜に、〜の中に。formは形。「思考に形を与える」を具体的に表現すると(具体的に「情報」すると)、方法のひとつとして「アドバイスを与える、伝える」ということができる。

 

この、「与える、伝える」という手段に夢中になり、あらゆる面から試行錯誤する。もっといい手段があるということが見えてきたり、できるようになってきたり、手を動かすうちに本質的な面でもいろんなことが見えてきた。人に伝え、人が引き継ぐこの道のりで、さまざまに「情報」が解釈され、「情報されてゆく」。

「手段を目的にしてしまう」的なことも生じます。

 

だからこそ、自分が今考えているこれは、もともとどういうところから来たんだっけ?と立ち止まることがいつも大切になります。

 

 

たとえば宗教を自分でつくってもいい

「情報がファストフードのように鵜呑みにされ、飲み込んだ本人からは何もフィードバックがうまれない状態はフィロ・ドクサ(意味の偏愛)であり、フィロ・ソフィー(知の愛)ではない。

摂取した情報が表現する情報へと転換される循環ループが起こることこそが、自律的なレリギオを生み出す道筋。」

という意味のことが『電脳のレリギオ』では書かれています。

 

レリギオとはラテン語でrekigio。

「あるものを自分にとって信用できるものとする。矜持として、ツールとして、手段として、地図として…」。そういった、「自分で歩いていく」ためのものを「情報」ということができるし、それはある面で「宗教」にわたしたちがこめるものとも通じるのではないでしょうか。

与えられたり、もとから「あった」宗教ではなく、自分で「宗教」を「絶対的なものではないもの、ツール」としてつくりだすことも、わたしたちはできる(というか、そうしてきた)。

 

その仕組みじたいを見つめ、考えること。たとえば、「宗教2.0」のようなものを作者は思考します。

「宗教」という日本語は、明治期に英語のreligionを翻訳してつくられた若い言葉だそう。

強調、反復のre、結びを意味する「リギオ」。狂信的であることは宗教ではないでしょう。

「納得のいく生き方を獲得するための考え方を模索すること」の手段として、宗教は使える(作者は「告白し、ゆるし合う」ことによって癒され「自分の足でまた歩き出せることができる」という人間の適応力や自己治癒力、心理に着目し、リグレトというサービスをつくりました。こういうのは、UXそのもののように思います)。

  

自分のペインをもとに、「情報」という存在を批評する

また、たとえば、自分の「ペイン」、もっとも切実に感じていることの、処方箋(ペインキラー)を見つけるための手段を考えよう、というクラスを持ちます。


情報技術を自分の価値観へ近づける方法として、フィードバックを返すこと、プロトタイプをつくること、オルタナティブを実装することなどが挙げられます。


人間と情報の関係とはとても難しいものだけれど、自分にとって切実なことを足がかりにするなら、それは乗り越えていける。また、それは、わたしたちが長くテーマとして抱えてきた「情報」という存在への批評になる。

そして、それは自分の頭でしか考えられない。与えられたサービスだとしても、自分がこれをどのように使うかという視点がないと使えない。

 

また、「人間」も「情報」そのものでしょう。自分で考え、自分で使うことで、自分という人間を乗り越えていく手段が有効、ともいえます。

 


立ち止まるための情報

飲み込まれそうな情報をどうにか見極めていくというより、情報「技術」に着目して取り組む方法もある。そのなかで立ち止まる、模倣する、展開する…そういう手段を通して、今の自分にとって必要な情報、将来の他者にとって必要な情報が分かり、扱えるようになる、という方法もあるということ。

溜め込みがちな情報を「捨てて、流す」という方法がかなりリアルに切実に見えてくる気がします。立ち止まること、遠回りをすること、タテ軸ヨコ軸をたどることで、「今」を豊かに模索することが可能になってくるのではないかなと思います。

 


当たり前のことだな。と書いてみて思うのだけど、これが、自分は思うようにできていない気がします。

 

 

「価値のある」情報とは

作者は「情報技術が文学のように発展できたら」と書きます。

「文学とは社会のなかで声のない人たちの代わりに成って書くこと」。これはドゥルーズの言葉で、「彼らのために」ではなく、「成り代わって」というところが重要。

 

「成り代わってデザインを考える」。これは『世界を変えるデザイン』でも書かれていたことでした。

じっさいに、わたしがあるデザイン(仕組み、アイデア、課題…としての)をサービスするとして。このサービス(情報、デザイン性−もちろん「デザイン性=装飾」ではない)は、それぞれがある環境におかれている「たったひとりの人」にとって、必要か、押し付けがましくないか、彼の未来や生きやすさにつながるのか、彼が自分で判断し切り開くツールになるのか。

それを、外部の人間がサービスするということはどういうことなのか。

 

もっともよいものづくりが為されるのは、そのコミュニティに属し、生活をしている人の手によると書かれてもいました。

生活のなかでこそ発見できる、「困った」に正面から向き合おうとするなかで見えてくるものが必ずあり、おのずとある角度から解決策が見つかっていく、と。

しかし、人にとってなかなか正面から向き合うことは難しいこと。だからこそ、客観的立場でありながら一生活者でもあり、コミットできる「情」を持ち合わせた者が「報」せることができるというところに、デザインという仕事が発生する、というところに落としどころがあるのでしょう。

 

 

「価値」の指針を自分で多く考えることも必要な気がします。
「よい」「かわいい」「ぐっとくる」「いらいらさせるけどそこがいい」…
具体的に挙げていくと、見逃している「価値」がどんどん出てくると気づきます

「価値」は、誰かに決められたものではなく、自分が認めていくものなのでしょう。

 

わたしは、対象の「価値をみつけて伸ばす」ことが、やっぱりいちばんいいように思います。

 

これも当たり前のことといえばそうなのですが、今自分がこういうことを、自分のペインをもとに感じているということを自覚するということが、まずは大切なんだと思います。

巨大なゴミ箱のSNSなんかをわたしは夢想しました。誰かが情報をひとつ捨てると、タイムラインが「すっと流れる感覚」になる、とか。

 

 

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