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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

原田達『知と権力の社会学』

>あらゆる富と人類の全遺産、そしてすべての文化と文明の排他的所有権

 

>知識、化学、人類の偉大な遺産が特権的少数者の世襲的独占物となる

 

>この剰余価値のとりたてが、じっさいは「知の資本」家という「特権的少数者」の社会的(集団的)行為であるにもかかわらず、知識や技能という「かれらの個人的能力への支払いだと考えられている!」ところにマハイスキーは知の狡智をみいだす。

「君たちは労働者や黒人の子どもたちだから排除されるのではない。君たち自身の能力が音っているからだ」と納得させ、しかしじっさいには「諸階級のあいだの文化資本の分配」を基盤にして集団主義的閉鎖が貫徹するという、近代社会における差別と支配の構造そのものである。パーキンはこのことを「階級や人種上のメンバーシップという集団主義的規模によってひそやかに差別する社会的閉鎖のパターンをつくりだすために、みかけ上は個人主義的基準を仕様すること」と述べたが、(略)

 

>きらびやかな装飾に惑わされて百貨店に誘い込まれる群衆と、心の病いに苦しんで精神分析の治療をうける患者には共通するものがある。どちらも「無意識」によって動かされているのだが、そこにはもうひとつの共通項がある。百貨店も聖心の病いも「あんとれ・リーブル(出入り自由)」であった。

>だれでも自由に、そして平等に入店できるのが百貨店であった。

 

>ここで、ソレルが「神話」と「空想」を対立的にとらえていることには注意しておこう。

>「空想」とは知的労働・科学的論議・理論家たちの所産なのであり、これにたいして「神話」は感情・本能・直感の資産であり、もともと労働者が共有しているものである。ソレルが「神話」を「空想」と対立させることによって論じようとしたことは、知・科学・理論はあくまで労働者にとっては外圧的なものであり(略)

>ソレルは、啓蒙を進行する近代知識人の想定とは逆に、知や啓蒙や理性が支配のための道具になってしまうことをみぬいていた。教育をとおした支配という着想、それが「民主主義的」支配を支えるという発想

>「言語の政治化」「政治の言語化」

民主化をささえるのは血でもなく、職業でもなく、「自由」や「平等」という理念、つまり「言葉」であった。

 

>消費文明とは「無意識」的欲求を可視化し、それを消費行動に向けて囲いこむ知的戦略のこと

19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカに反乱した図像たち(略)、その頂点にある映画などは、言語記号の解体と無力化を基礎にして、「意味するもの(シニフィアン)」それじたいの動員能力を巧みにひきだそうとした近代の支配装置と解釈することができるだろう。

図像が意味を持ち始めれば、言葉はコノテーションを豊かにする。すでに自由には「清冽な」自由も「硬質の」自由も「温かい」自由もある

>記号は意味から自立し、「演技する」記号となって、それじたいとなって力を使いはじめる。

>ある種の言語は、それによって「意味されるもの(シニフィエ)」を解体・分裂させながら、「意味するもの(シニフィアン)」の象徴動員能力を肥大化する。そのとき、この「意味するもの」は「意味されるもの」からきりはなされて、人びとの心情に訴えようとしはじめる。言語記号は「意味されるもの」の運搬機能についてはますます無力化し、しかし、表象化(心象化)されることによって、その訴求(動員)能力をたかめるのである。と同時に、言語記号じたいが「演技する」可能性もまたひらかれてくる。

 

>バジョットの「象徴としての君主」としての発想は立憲君主制と大衆民主主義が出会うところにおいて成立するもの

>それはかれの廃部にあり、外部からかれの政治的判断を左右しようとするもの

>「観客」「演技」「俳優」「見せもの」

 

>そこでかれがみいだしたものは「わけのわからぬ」ものを「眼前にながめ」て、それにひれ伏す大衆の姿であった。

>劇場としての百貨店、光が演出する幻惑の効果、鉄道旅行がつくりだす視野の受動性、そして「見せびらかされた」テクノロジー

>この「演技的政治」のクライマックスにたつのが「象徴としての君主=女王」であった。

 

>世紀末ウィーン、それはフロイトやシュニッツラー、ホーフマンスタールやクリムトなどもふくめて、おおくの知識人が知と心情の新しい関係はあくに格闘した都市であった。

モーレス・バレスの存在意義は「普遍的言語」を操る知識人たちの虚偽性、つまりその思想のイデオロギー性を暴いてみせたことだった。かれは「自由」「人権」「正義」などの言葉の背後にこれらの「象徴」を駆使する進歩的知識人の特殊な政治的情熱や利害関心を読み取ろうとしたのだった。

 

>ミルヘス

「職業的指導者層」の成立は、それと共に支配者と被支配者との間の競技場の差異のいちじるしい尖鋭化をもたらす。長い歴史的経験は、多数者に対する少数者の支配の要因として、貨幣および貨幣価値(経済的優位)の要因や、伝統および相続(歴史的優位)の要因とならんで、とりわけ第一に、習得された強要(いわゆる知的優位)の要因が数えられることを、教える。

 

>モスカ

「微妙な繊維である絹の糸」を伝統社会の遺制としてではなく、近代社会の発明物と考えていたのである。教育の機会が拡大したからこそ、教育が重要な芸さの基準となる。生活様式の均質化が可能になったようにみえるからこそ…(略)

 

ヴェーバー

「世界像=神義論」をつくりあげ、わたしたちはどうあるべきであり、どうありうるかをしめすこと、そしてわたしたちはどのようにして、どこからどこへ「救済」されるべきかという「現世拒否」の方向をさししめした

 

>モスカ

「政治定式」の歴史的妥当性である。いわばそれは、時代的「苦悩」にぴったりとした「神義論」が形成されているかどうかの問題である。「政治定式」(という神義論)は人びとの「文明水準」(つまり「苦悩」の歴史的変遷)に適合したものでなければならない

そうしてはじめて、この「政治定式」が人びとに受容される。

この受容は人びとを政治的(宗教的)行為へと駆り立てるのだが(略)そこにはこの「教義」を体現し、あえて犠牲となるような少数の指導者が存在する必要がある。

 

最後にエートスの話。

 

 

 

知と権力の社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

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