hidden design

大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

夏休み/アイデア/センサー/ゆらぎ

なかなかうまくいかない、うまく付き合えない、難しい、と自分が意識し感じる、「こと」や「とき」における自分のふるまいかたについて。

 

ひとつのプロジェクトがあって、同時多発的に雑多なアイデア/センサー/芽が育つ。それらを観察して、テストし、失敗し、繰り返すことで整え、ひとつのかたちになるさまを見届ける。

その道すじをデザインと呼ぶとして。

 

さまざまな地点でさまざまな時間が流れ、たとえばひとつの本質的な問題を掘り起こすことができる、たとえばひとつの境界/輪郭が浮かび上がる、たとえばひとつの観点や認識を発見する。

 

それを価値として、私はその、各地点の最初の「点」が打たれる始めの段階において、いちばん緊張しているように思う。

 

 

たとえばアイデアを出すとき、コンセプトを立てるとき。それを、この自分がまともに受け取れるだろうか。

という不安からくる緊張(に、ワンパターンな反応で返すという浅はかさ)。

 

テキストやビジュアルがあり、整理することでだんだんかたちが見えてくるリーフレットなどより、シンプルで長く使われ生きることになるロゴマークの作成のほうが、私には難しい(もちろん場合によるけど)。

と感じてきた。

 

ただ、この「難しさ」は、新しいものを展開していくときに感じる自分のなかの「抵抗」の感覚との付き合い方のことだ。

 

難しい、と意識してきたため、隣に子がいると「スタート」の作業ができなかった。考える作業、ラフを描き出す作業。

子がYouTubeをずっと見ているのもとてもとても気になっていた。

 

私たちなりにこの夏休みを経験して、

それでも、でこぼこに、いろんなセンサーが成長したと感じる。子はもちろん、私も。また、このセンサー自体が、自分にとっては自分の問題や課題に通じるアイデアであるとも知っている。

 

毎日過ごす場所が保育園から小学校に変わり、彼は、きっといろんなところでがんばってきたんだと思う。もしかしたら、この夏休みは、彼にとって去年よりすこし「上手に」休めたのかもしれないと思う。

 

「夏休み」というものを受け取り、自分の問題や気持ちや環境でもってその「時間」と付き合うことで、自分のことを知って経験すること。あるひとつの、一回きりの夏休みを、存分に休むこと。

 

彼に対する自分のふるまいについて、彼の挙動に対する自分の反応について、これでいいのだろうか、などといったことをメインに、自分は不安を大きく感じてきたとは思う。

 

ずーーーっと私が隣でカチカチとキーボードを叩いたりうなったり、困ったり喜んだり、のってきて黙りこんだり電話で話したり…そのなかで子に伝わって来る私との時間には、もどかしさや弱々しい拮抗の気配があったと思う。子は、それを感じながらYouTubeを見る時間を長く過ごした。

これでいいのか、一緒にいる時間をつくろうとしてできた時間がこんなばっかりでいいのか、と私がつよく感じて悶々としていたときも、彼は自分でそれを選び、それを休みの時間だと感じていたんだろうな、もしかしたら、と今になって思う。

もちろん、私もそのこと全体から励まされてきた。

 

何の確信も、答えももたないゆらぎの時間に休むことの重要さについて。

また、重要さのそのつかみどころやポイントのないことこその、重要さについて。

 

 

○○○

それはそれとして、ちょっとでも自分の思うように環境をつくっていきたいと思うと、こんなにも社会構造的に、しんどく、疑問をもつような/誰にとっても無駄だと感じることがらに時間を費やすことになるものなのだろうか?とは思う。いつもいつも、自分はここまでずっと、すべてのしんどさをいちばん身近でぶつけやすい自分の子にぼろぼろと振り落とし、泣かせてきた。と思うのは、「自己責任」、自分で自分の面倒をみることができていないから、というだけだろうか?この捉え方だけだと感じてしまうほうがすごく貧しいことだとも思う。

自分の生活において、自分のできる範囲で、こういうところももう少しなんとかしたいと思う。

 

 

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