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大阪市で働くデザイナーのブログです。ポートフォリオ→https://hiddendesignsite.wordpress.com/

細谷雄一『戦後史の解放1 歴史認識とは何か 日露戦争からアジア太平洋戦争まで』

人はいっときの感情に支配されるし、恐怖から目をそらす。自分のこと、目先のことを考えがち(しか考えないといってもいいかも)。自分の癖をどのように見つめ、解放して助けるか。

自分がどんな思惑にとらわれ、都合よく考えようとしているか、認識できていないことに気付かないままに愚かな選択を重ねることの罪。

比喩とは人物に属させているものを事物に返そうとする営み、ともいう。出来事や形式がなぜどの思惑によって生まれたか、自分がかたくなにまもろうとしているものの奥にあるすでに壊れたものは何か、など、思い当たる自らの醜さや弱さのこと、絶望のこと。

 

 

・1980年代にフェミニズムポストモダニズムが盛り上がり、歴史認識問題に息吹をあたえる。

現在のそれぞれの立場における都合や思惑により、過去の事実が解釈され、たとえば日韓関係に暗い巨大な影を落とすことにもつながる。
人は、事実をシンボルとして操作し、自らの望む方向へ現実を動かそうとする。

 

・すべてが1945年からはじまったわけではない。「零年」や「神格化」といった見方が招く危険性。

 

・戦後史の基本的な理念である平和主義、人道、人権、民主主義といったリベラルな価値に基づく国際秩序の基礎は、実際は1945年以前につくられていた。

 

・1914年からの「30年の戦争」の時代ほど、平和がのぞまれた時代はない。にも関わらず、この時代にもっとも多く虐殺があった。

 

・20世紀後半はほとんど戦争ないとされる。「第三」世界の戦争。


・20世紀前半は戦争と殺戮にあふれていた時代、後半はそれを防ぎ平和を確立しようとする時代。
平和を確立しようとするそのような動きを戦後史の源流としてみいだすことができる。戦後のはじまりはその転換点とおくことができる。

・1928年 パリ不戦条約 国家政策の手段としての戦争を放棄。自衛のための戦争に触れていない。


・1931年 満州事変 日本人は、パリ不戦条約の意義を世界史的な視座から理解していなかった。自分の持ち物である満鉄の安全と権益をまもろうとする意識。

 

・1945年 ポツダム宣言 アメリカイギリス中国による日本の降伏要求。と同時にアメリカでは原爆の準備。
トルーマンにはドイツ軍主力部隊と闘い続けてきたソ連に対する敬意がない」として、スターリントルーマン、米ソ間の相互不信があった。
アメリカ太平洋戦争の集結。日本内部でもそれぞれ違う終戦の時間が流れていた。沖縄は8/15の玉音放送はなかった。米軍にほぼ占領されていた。

 

・国際政治の世界では、純粋な正義が実行されることはほぼなく、通常はそれぞれの政治思惑のなかからそのような偽善を含む正義が唱えられている。かといって、純粋な暴力政治が行われることもほぼなく、正義の衣で覆っている。

 

ゴールデンウイークと、5、6月の週末で書き上げたという。

森千香子『排除と抵抗の郊外 フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』

・郊外という世界、予言としてのラップ、言葉で自己に招いてくる悲劇、無視されるそれら

・マイノリティ研究が自己を客観的に見る助けになることについて

・理想が「あり」、そのために「ない」ことになっている(ブラインド)差異、エスニシティを可視化する方法(カラー)によって発生する差別意識、その取り扱い方について

・移民をめぐる分析が、社会における思惟されざるものを掘り起こし、その社会の客観的分析を可能にすることについて

・団地の存在によって混じる社会的・歴史的文脈、階級問題が都市問題になったこと、少しずつ問題がずれていくその推移の見守り方について

・あらゆる貧困・困難の「拡散」が目的になることで見えなくなる問題について

都市政策が赤い郊外自治体で展開された外側・内側における背景について

・本音と建前

hidden designの名刺

f:id:hirokototomi1:20170508103916j:plain

hidden designの名刺ができました。

(連休中にやっと作りました)

 

printing レトロ印刷

紙:しらす
インク:紫

 

 

もうしばらくのあいだ、デザイン事務所勤務と兼業というこの体制ですが

試行錯誤するなか、

ひとつひとつ、できるかぎりまっすぐ丁寧にお仕事をする、という思いとスキルは

確実に高まってきたと思います。

 

 

ロゴマーク、チラシ、パンフレット、カタログ、書籍、パッケージ、看板など

広告のこと、印刷物全般のデザイン、承っています。

(webデザインも、今年度中には…!)

 

お気軽にご相談ください。

どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

(↓お試しでどうぞ)

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https://www.lancers.jp/profile/roko_hirokodori?1494209770&ref=header_menu

 

 

 

 

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hidden design(ヒドゥンデザイン)

director / designer 冨家弘子(とみいえひろこ)

 

///ポートフォリオ

https://hiddendesignsite.wordpress.com/
(未整理ですが)

 

///連絡先はこちら

hirokodori@gmail.com

〒531-0061

大阪市北区長柄西1-1-21 山尾ビルグランデ302号

phone.070-5453-0566

メモ

メモ。

 

ヘイトスピーチの画像を、迷ったけど台所でひとりで見た。

そのあと迷って、自分の子に話したら見てみたいと言ったので、迷って、

説明しながら一緒に見た。

 

・自分が、力が入っていると感じると同時に大事にしたいと思いたがっているのは、

ひとつひとつその場で、子が何かに出会う機会をつぶさないようにしたいこと、

また、

もしかしたら自分が、自分の子が、今と別の状態にい(る)かもしれないことについては、できるだけ広く深く知っておきたいこと、他人事と思わないようにしたいこと、

また、

そのことで熱狂に飲み込まれて見失いたくないこと、、

というより、すでに見失っている「かもしれないことを理解しようとすること」。

それを、とくに子が小学校に上がってから気にするようになった。

小学校は大きくて、いろんな子やいろんな人がいるので。

 

・負い目や性格や、環境や、、自分の、また、自分の近しい人(と)の、バランスをとにかくとりたい、と思っていて

自分の安全のことを思っている。自分が自分の大切な人やものに対してへんなことしないことを。

 

・今はまだ、自分の子と一緒にできるだけ過ごしたいし、それがいいと思っている。

・環境にも、周りの人にも、自分は恵まれているし、これがベターでベストだ、とたびたび感じてもいる。

・ただ、この方法で生活をしていくのがいいのか、駄目なのか、何とも言えないところもある。たとえばこの今の単価。

・「方法」というより、、方法を選べているというよりも。

意識的に、主体性をもって自分が行えることがほぼない。これは、自分の性格や体力などによるものでもあるし、環境によるものでもある。この身の処し方でいいのか。と。

 

・今、小学校2年生、もう、小学校2年生。1年くらいのサイクルで課題が変化していくように思う。この状態、この方法で来年もいくのは違うと感じる。無理。 

 

・いつも、目の前にある「これ」がいちばんの目的ではないのだけどな、でも、

と、長ーく寄り道をしながら、手を広げて、今年度こそ、webデザインをきっかけに、また、きっと新たに出会う何かをきっかけに、知らなかった視座を獲得して、更新していきたい。

webデザインをするにあたってつよく感じたとまどいは、

今どこにいて、でこぼこがないそれらをどのように見て、どのように扱い、どのように向上させるか、また、「向上」はOKなのか、価値をどのようにおくのか、どこでストップするか、守るか、どのように別のベクトルをも生かして環境をつなぎ渡していくか、

というようなこと。

自分にとって今大事なことだと思うし、つよく惹かれることなので。

 

・なにが違うというのか、なにが「上」だというのか、

なにを根拠に自分が決め、見てきたか、捨て、見ないと決めたか。見たけどかたちにしなかったか。etc

かんたんでほんの少しのことが、なにかを生かし、殺すということに通じていくだろう。

「思えない」とする自分の生き方に、そういうことは通じていくだろうし、

「思ってみる」とするそれにも、通じていくだろう。

原田達『知と権力の社会学』

>あらゆる富と人類の全遺産、そしてすべての文化と文明の排他的所有権

 

>知識、化学、人類の偉大な遺産が特権的少数者の世襲的独占物となる

 

>この剰余価値のとりたてが、じっさいは「知の資本」家という「特権的少数者」の社会的(集団的)行為であるにもかかわらず、知識や技能という「かれらの個人的能力への支払いだと考えられている!」ところにマハイスキーは知の狡智をみいだす。

「君たちは労働者や黒人の子どもたちだから排除されるのではない。君たち自身の能力が音っているからだ」と納得させ、しかしじっさいには「諸階級のあいだの文化資本の分配」を基盤にして集団主義的閉鎖が貫徹するという、近代社会における差別と支配の構造そのものである。パーキンはこのことを「階級や人種上のメンバーシップという集団主義的規模によってひそやかに差別する社会的閉鎖のパターンをつくりだすために、みかけ上は個人主義的基準を仕様すること」と述べたが、(略)

 

>きらびやかな装飾に惑わされて百貨店に誘い込まれる群衆と、心の病いに苦しんで精神分析の治療をうける患者には共通するものがある。どちらも「無意識」によって動かされているのだが、そこにはもうひとつの共通項がある。百貨店も聖心の病いも「あんとれ・リーブル(出入り自由)」であった。

>だれでも自由に、そして平等に入店できるのが百貨店であった。

 

>ここで、ソレルが「神話」と「空想」を対立的にとらえていることには注意しておこう。

>「空想」とは知的労働・科学的論議・理論家たちの所産なのであり、これにたいして「神話」は感情・本能・直感の資産であり、もともと労働者が共有しているものである。ソレルが「神話」を「空想」と対立させることによって論じようとしたことは、知・科学・理論はあくまで労働者にとっては外圧的なものであり(略)

>ソレルは、啓蒙を進行する近代知識人の想定とは逆に、知や啓蒙や理性が支配のための道具になってしまうことをみぬいていた。教育をとおした支配という着想、それが「民主主義的」支配を支えるという発想

>「言語の政治化」「政治の言語化」

民主化をささえるのは血でもなく、職業でもなく、「自由」や「平等」という理念、つまり「言葉」であった。

 

>消費文明とは「無意識」的欲求を可視化し、それを消費行動に向けて囲いこむ知的戦略のこと

19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカに反乱した図像たち(略)、その頂点にある映画などは、言語記号の解体と無力化を基礎にして、「意味するもの(シニフィアン)」それじたいの動員能力を巧みにひきだそうとした近代の支配装置と解釈することができるだろう。

図像が意味を持ち始めれば、言葉はコノテーションを豊かにする。すでに自由には「清冽な」自由も「硬質の」自由も「温かい」自由もある

>記号は意味から自立し、「演技する」記号となって、それじたいとなって力を使いはじめる。

>ある種の言語は、それによって「意味されるもの(シニフィエ)」を解体・分裂させながら、「意味するもの(シニフィアン)」の象徴動員能力を肥大化する。そのとき、この「意味するもの」は「意味されるもの」からきりはなされて、人びとの心情に訴えようとしはじめる。言語記号は「意味されるもの」の運搬機能についてはますます無力化し、しかし、表象化(心象化)されることによって、その訴求(動員)能力をたかめるのである。と同時に、言語記号じたいが「演技する」可能性もまたひらかれてくる。

 

>バジョットの「象徴としての君主」としての発想は立憲君主制と大衆民主主義が出会うところにおいて成立するもの

>それはかれの廃部にあり、外部からかれの政治的判断を左右しようとするもの

>「観客」「演技」「俳優」「見せもの」

 

>そこでかれがみいだしたものは「わけのわからぬ」ものを「眼前にながめ」て、それにひれ伏す大衆の姿であった。

>劇場としての百貨店、光が演出する幻惑の効果、鉄道旅行がつくりだす視野の受動性、そして「見せびらかされた」テクノロジー

>この「演技的政治」のクライマックスにたつのが「象徴としての君主=女王」であった。

 

>世紀末ウィーン、それはフロイトやシュニッツラー、ホーフマンスタールやクリムトなどもふくめて、おおくの知識人が知と心情の新しい関係はあくに格闘した都市であった。

モーレス・バレスの存在意義は「普遍的言語」を操る知識人たちの虚偽性、つまりその思想のイデオロギー性を暴いてみせたことだった。かれは「自由」「人権」「正義」などの言葉の背後にこれらの「象徴」を駆使する進歩的知識人の特殊な政治的情熱や利害関心を読み取ろうとしたのだった。

 

>ミルヘス

「職業的指導者層」の成立は、それと共に支配者と被支配者との間の競技場の差異のいちじるしい尖鋭化をもたらす。長い歴史的経験は、多数者に対する少数者の支配の要因として、貨幣および貨幣価値(経済的優位)の要因や、伝統および相続(歴史的優位)の要因とならんで、とりわけ第一に、習得された強要(いわゆる知的優位)の要因が数えられることを、教える。

 

>モスカ

「微妙な繊維である絹の糸」を伝統社会の遺制としてではなく、近代社会の発明物と考えていたのである。教育の機会が拡大したからこそ、教育が重要な芸さの基準となる。生活様式の均質化が可能になったようにみえるからこそ…(略)

 

ヴェーバー

「世界像=神義論」をつくりあげ、わたしたちはどうあるべきであり、どうありうるかをしめすこと、そしてわたしたちはどのようにして、どこからどこへ「救済」されるべきかという「現世拒否」の方向をさししめした

 

>モスカ

「政治定式」の歴史的妥当性である。いわばそれは、時代的「苦悩」にぴったりとした「神義論」が形成されているかどうかの問題である。「政治定式」(という神義論)は人びとの「文明水準」(つまり「苦悩」の歴史的変遷)に適合したものでなければならない

そうしてはじめて、この「政治定式」が人びとに受容される。

この受容は人びとを政治的(宗教的)行為へと駆り立てるのだが(略)そこにはこの「教義」を体現し、あえて犠牲となるような少数の指導者が存在する必要がある。

 

最後にエートスの話。

 

 

 

知と権力の社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

知と権力の社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

 

 

「hidden design」という屋号と、そのまわり

アメリカ。

アメリカ、シカゴに3か月だけいたときに人に言われて心に残っていることは

 

今あなたは踊りたくないと感じているんでしょう?じゃあ、あなたは踊らなくていいんだ。

あの先から向こうは行ってはだめなんだ。あなたにはあの場所は危ないから。

それができるようになりたいんなら、今から慣れ親しんだこれを使ってはだめ。

あなたがそう感じるのは、どうして?きかせてみてほしい。

 

そんな言葉。

 

 

「hidden design」という屋号は、その頃、毎日近所の本屋で座って眺めていた本のタイトルから来ています。

語呂の良さと、自分の名前の「h」を頭におけるのもよかった。

濁点の多い、こもったような語感も気に入っています(濁点の多い語感は「美味しそう」)。

また、こういう決め方は最初に勤めたデザイン事務所で教わってきたことのように思います。

この名前あるものを、自分は大事に育てていく義務も権利もあり、理解したいと思うのです。

 

 

フリーで仕事を受けるときの名刺もロゴマークもいまだにつくることができていないのは、まだまだ自分の環境が整っていないという後ろめたさがあるからで、4月あたりまでには会社との兼ね合いも決めなければいけない気が・決めていい気がしています。

自分の家族との付き合い方、会社との付き合い方、社会との付き合い方があり、

自分は何をどう大事にするか、どう付き合っていけばいいか。

 

 

ものごとを選べるという環境にたまたまいることが、すごくラッキーなことなんだと感じています。

また、何か・誰か、自分が見えないようにしていることの犠牲のもとに成り立っているということも。

 

 

自分にとって不本意だと感じることをしないこと、それはたとえ小さなことでも。ごくごく小さな、挨拶にまじるフレーズでも。

 

 

お金の交換が発生しない関係性や状況における、

お金以外の自分にとっての価値を、自分はまったく分かっていないなあと思います。

価値とは何かということも。

どうして分かっていなくても表面上は大丈夫そうだったのか、問題なさそうだったのか、ということも。

構造のなかに組み込まれながら考えること、思うこと、感じることは、

はたして、ほんとうに自分にとってそのように「考えること、思うこと、感じること」なのかどうか。

 

「表現をする」という方法でもって、能動的に「考え、思い、感じる」ことのほうが、たしかなことなのだと思います。たしかなこととは「方法、道のり」であって、回答、解答、また解凍でもない。

「表現をする」とはとても小さなところから、自分の身の回りのところから、ワンフレーズから。

 

 

ナレッジキャピタル超学校の「未来を動かす人とテクノロジー」の回へ。

平川秀幸さんと若林恵さんの会話のうちに、そんなこともあらためて思いました。

 

 

自分の来し方から、行き方から、どうも自分はこうなってこう納得してこうするのが生きやすいようだ。仕事するよろこびや価値を、自分はどう構築するか、という面からエゴイスティックに仕事と付き合っていくというやり方は(というよりは、そこの癖を自覚してできればできるかぎり受動的に)、松本工房の松本久木さんとサウダージ・ブックスの瀬戸内人さんの会話のうちにはっきり意識しはじめたことだったように思います。

イメージの永劫回帰/三塩佳晴exhibition(ワイアートギャラリー)

イメージの永劫回帰/三塩佳晴exhibition(ワイアートギャラリー)

 

すごいなあ、すごいなあと思いながら観ました。魔法を、ひとは使うのだ、と気づかされ、ほかのことはどうでもよくなります。

「水脈」「Wildflower」「楕円の…(タイトル忘れ)」といった作品におののき心を奪われました。

 

 

自分のもっているもの、できることを、時間稼ぎや言い訳のために使うことのいかに多いことか。

表すということの技術を磨がないでおくわけにはいかないだろう、と思わされます。

自分のもっているものとはたとえばとてつもなく多い。できることも、表すということの意味も、ひろいひろい意味で、です。

目に視えるものはとりあえずぜんぶ自分の関わりから生まれたものでしょう。

ひろいひろい意味で、そういうことを思わされました。

 

 

 

http://イメージの永劫回帰 三塩 佳晴 exhibition